昭和57年9月29日 教祖生誕祭
入力 広崎克一
親先生の御教話
働きが起こっております。「氏子信心しておかげを受けくれよ」と教えて下さるおかげとは、どういうおかげを云うのでしょう。
医者に見放された病人が助かる、問題が解決する、まあ人間の難儀という難儀が一つ一つおかげを受けるということ、まあこれを一般では御利益と申します、御利益を受けるということが助かることの手立てではございますけれども、そういう処から本当な事が分かる、ゆはゆる、真の信心が分かる、真の信心ということは、本当の人間の幸せになっていく道、それが真であり、真の道だと思うのです。
私共も長年の信心を頂いておりましたけれども、ただおかげを頂くと云う、御利益をうけるという信心に留まっておったのでございますけど、日本が敗戦、ゆわゆる、終戦になって此の方、私ども途端の難儀が、これは私共だけでは御座いませんけれども、お国全体がそういうような難儀に遭いました。
そして始めて目が覚めたように私の心の中に今まで拝んでおった、いままで願っておった信心はこれは唯信心ではあっても、真の信心ではなかったと気が付いたのです、それは終戦が1つのキッカケでございました、そして本当の信心真の信心とはということに、マア、開眼が出来た、そういう心が起こってまいりまして、その真の信心を本気で求めさしてもらい、分らして頂くに従って今日の合楽が御座います。
先ほどここに敬親会の久留米の枝光という処からご婦人が大勢といっても敬親会に入っておられましから、もうおばあちゃんですね、不思議な縁です、丁度ここの前を通っとられる時に知ったお方が丁度ここに参拝してくる方に出会われた、それでその方こもんどの方ですけど「新たかな神様がおられるから難儀を抱えておられるんならば、お参りしてごらんなさい」と云うてこの前で逢ったのがご縁で、そしてお参りするようになってから2ヶ月ぐらいにになられるでしょうか。
毎日あちら久留米から朝のご祈念に見えられます方が今先ほど、ここでお届けをされますのに、もうお話を聞けば本当に難儀な難儀な問題でございました。
娘さん、福岡の方に縁についとられる娘さんのことでございましたが、今述懐してその時分のことを云われますのに、「娘から電話が掛かってまいりますと足がガタガタ震うようにございました」と云ったような難儀な問題だったんです、処が、ご本人が朝参りが出来るようになり、教えを頂かれるようになり「どうしてこういうような有り難い神様がおられることをもっと早く知らなかったろうと思います」というように心が開けてきた。
それが娘さんがお参りする動機にもなった、娘さんも一生懸命お参りしてみえて、今福岡の方に帰っておられますが、今ここでお届をされましたが、詳しい事は聞きませんけど「それ以来の親子の助かりというものはとにかく有り難いもったいない、親先生どうぞ一日でも長生きして下さい」今もそういうお届をなさいました。
そしてあの云われるのに、以来「合楽でおかげを頂いて此の方毎日毎日不思議な事の連続で御座います。」というお届けが御座いました。
私思いますのに、私どもが、いうならば、御利益信心というか、おかげ信心から、今までの信心はおかしかったぞ、教祖様は「真の信心真の信心といわれるのに、真の信心に目覚めていなかった」ことに気付いたのが終戦と同時のように思いますが、以来私共の真の信心を求めに求め続けていただいて、「大坪さんがおかげ頂きさらんはずがない」というような信心をさせて頂いておって一家を上げての信心であったにも拘わらず難儀な事が続来ました。
兄弟三人の葬式をしなければならないような事が起こった、長年致しておりました商売を辞めなければならないようになった、まあ云うなら、と突端の難儀では御座いましたけれども、ドッコいその頃は真の信心を求めている時ですからその中にご神意がある、この中にご神愛がある、ここから真の信心が分らして頂くのだという事になってまいりましたら、なるほど苦しい事は苦しいですけれども有り難いんです、叩かれれば痛いんですけれども、痛いけれども有り難い、不思議なことですね、どういう中にあっても有り難いという、本当なことが分って来るから有り難くなるのです。
いま飯田さんと云われますが、枝光から参ってみえておられるおばあちゃんのお届けじゃないですけれども、以来本当のことが分り出したら今でどうして難儀な、こういう問題が又とあるだろうかと思うような問題の中にあって、お礼が申し上げられるようになった、こういう有り難い神様はどうして、まあ縁とは云いながら知らなかったであろうかというのでございますが、これもやはり縁ですから、いま日本全国からお参りがあります。
例えば足元におっても分らん人は分りません、縁です、そんな縁が生きてそれが真の信心につながっていかなければ、唯縁が出来たというだけではいけません、真の信心には絶対真のおかげが頂けます。
合楽椛目を通して数十年になりますがその中にダンダン真の信心によるおかげ、「一人がおかげを受けた為に千人も万人もの者がおかげを受けるようになる」と仰せられるようなおかげが今日合楽に展開してきております。
来年は教祖の神様の百年祭がご本部で仕えられます、もう合楽では長い廊下に千人以上の方達の申し込みがあっております。本当に御教会のお許しを頂いて今年が丸十五年になります、十五年の記念祭が来月の十六日にはここで十五年大祭が奉仕されるわけですけれども、それこそ私一人の助かりが一家の助かりになりそれが私の周辺に縁あってご縁を受ける方達の助かりに繋がってそれこそ千人も万人もの者が助かっていくような働きに、しかもそれが海外にまで、ここのブラジルのもう3年になります、ブラジルに布教に出て、4、5日前に手紙がまいりましたが「あることから、あちらのブラジル人の方たちが大変助かる、いままでは日本人の方の少しばかりの信者があちらのブラジルの方たちをお道引きしてくるのだが、最近はブラジルの方達が日本人を導いてくるような傾向がございますよ」という手紙で御座いました。
州が沢山いくつも、その1つが日本国の広さがあるそうですから、大変はことですけどもう7つの州からあっちこっちからのご参拝がある、合楽に日本中から集まってくるようなものではないでしょうか。
先たっても、あるブラジル人の人がそれこそ大変な奇跡的のおかげを頂いてその有り難さがその土地の新聞に自分がおかげを受けた話しを掲載された、ですからその州からお参りが多くなってその人たちが日本人を導いてくると云うような、マア、言葉も分らない事情も違うんです、けれども「助かる」ということについてそういう働きが起こっている。
それはどういう事からかと云うと「ただ御利益を受けるということだけではなくて、真の信心が分って来るからです。真の信心が分ると今までは「何と腹が立つことでだろう、何と難儀な事であろうと思うておったのがその実相というか、本当のことが分って来るんです、ですから「自分のような難儀な者があろうか」と思うておった心からです、その神様の神愛に感動が起こってきます、このようにして本当なことが分らして頂くんだと信心の喜びが頂けてくる、今信心の喜びに、今飯田さんがお届をされましたように、以来と云うものは、もう事柄の一つ一つの中に不思議な不思議なことが起こり続けておます」というのが、たとえば今私がお取次をさせて頂いたことで御座いました
1つ1つがどういうことですかとも聞きませんでしたけれども私ども大坪家の上に30年間、その云うならば、毎日毎日が不思議で不思議でたまらん働きが起こり続けておるのが今日の合楽の御比礼ではなかろうかと思います。
それも真の信心を目指すということ、そこからです今まで喜べなかった事、否、不平不足不満だらけであった心の状態から不平がない不足がない不満がない生活に入っていくことが出来るのです、ゆわゆる喜びの生活、どうでしょう、私共がです本当に不平不足のない、思わんですむ生活がもしそういう道があるとするなら、私はそういう道を体得しなければならない、教えてもらわなけば行けない。
そしてそう云う道を歩かして頂いて、いよいよこれは特に今日はお年寄りの方が多いですから、「信心して歳をとるほど位が付くものじゃ」と仰る「信心すれば1年1年有り難うなってくる」というのはそういう真の信心からに依らなければ、いくら信心を頂いておっても御所根性が強うなったり不平不足がいよいよ多くなったりするのであって、ですから真の信心にこちらがなろう、又ならせて頂こう、そういう道があるならばそういう道を歩かしてもらおう行じさしてもらおうということになって来る時に、イヤというても有り難いのが湧いて来るのです、頂けるのです。
その「有り難いという心に、飯田さんの言葉じゃないけれども、毎日毎日不思議な不思議なおかげが現れておるというおかげが繋がっていくのです、私共が魂の世界に入らせて頂いてもその魂は喜び喜び、そのありがたいおかげを頂かせてもらえる、いわば、心がいよいよ益々おかげの世界を広げて行くことでしょう。
これは私自身が何十年間の信心をさして頂いておって確かに新たかなおかげを頂いておったけれども真の信心ではなかった。
そして終戦、そして私どもが北京に居りましたが、北京から引き揚げて帰って参りまして途端の苦しみに合った時に「今までの信心はおかしかった」と云う事に気が付いた、そこから真の信心を目指そうという事になった。
ところが難儀なことが次々に起こったけれども、もうその時には、もうすでに難儀な問題の中から真の信心を分かろうと意欲するようになった。
おかげを頂いてそういうメグリのお取り払いを頂き、難儀の中から有り難いものを頂いていっておりましたら、私だけではない沢山の人が私の周囲に助かってくるようになった、そして今日の合楽の助かりがありご比礼あるのです。
これは私の体験から、唯「信心しとります」でなくて「1年一年有り難うなっていくという信心」を私は今日は『真の信心』というふうに聞いて頂いたんですけれども、だから、真の信心には絶対、間違いなく真のおかげが伴います。
真のことが分かりますから、今まで腹の立つと思うておった事の中に心の中にお礼が云えれるような心が開けて参ります、不平不足に思うておったことが「もったいない事であった」御礼を申し上げねばならん事に不平不足を思うたり云うたりしておったと気が付いて時に「信心の喜び、ゆわゆる、歓喜」今飯田さんの毎日の朝参りはそんな感じが致します。
どうしてこういう有り難い神様をもうチット早よう知らなかったであろうか、しかし「縁」ですから仕方がない、ですからご縁を頂いたその御縁をきっかけに、そういう信心に目覚める、そういう信心を意欲する、本当に不足を云わんですむ、思わんですむような生活が出来るなら、そういう道があるならその道をやっぱり体得さしてもらおう、教えてもらおう。
合楽で説かれる合楽理念というのはもう人間が人間らしゅう生きながら、本気でそれを頂こうという気なら子供でもそれを行じていけれる手立てが説かれてありますのも、こりゃ。合楽理念によることでございます。
今までの過去の宗教がいろいろに説いてきた、それこそ、人間が人間らしくない、まあたいへんな修行なら修行でもしなければ到達出来ない世界というのでなくて、人間が人間らしゅう生きながら最高の道を体得する事が出来、最高のおかげの世界に住むことが出来る。
これは私の体験からお話し申し上げられることでございますけれども、それでも、やはりそれを唯参っとります拝んでおります、お取次を願っておかげ頂いていますというだけではなくて、今日皆さんに聞いて頂いた、本当のことが分かるからありがたくなる、本当のことが分かるから本当のおかげが伴うてくるというようなおかげを頂いて頂きたいと思います。
今日は又例によって、会食そしてから演芸などがございますそうですから、どうぞごゆっくり信心の世界というか、味合いを味わって頂いて皆さんもそういう信心の味をめいめいのものにする意欲をお持ちになったら今日の縁というものはいよいよ有り難い縁に繋がって行くことでしょう。
教祖の神様がお喜び下さるというのは、真の人間の助かり、神様おかげで助かりますという、私は一人でも増えることが教祖の神様のお喜びでもあると思います。
どうぞ1つ、今日は神様と私共が一緒に喜び合いえる、神様と人間氏子が喜び合いえる、それを私は合楽世界と云うております、合楽というところは大変な処なんです、本当に神様と人間とが御礼が云い合える、喜び合い得る世界、そういう世界の1つの手本のようなものをきょう皆さん感じとって頂けば大変有り難いことだと思います。 どうぞ。